Strain Energy
歪みエネルギーとは、異常な分子構造によって生じる分子の不安定化の大きさであり、その異常は (1)伸縮歪み(結合長の異常),(2)変角歪み(結合角の異常),(3)ねじれ歪み(二面角の異常), (4)立体歪み(空間的な原子の異常接近)に分類されます。ここでは、いくつかの環状化合物にスポットを当てて、主に変角歪みの影響について考察してみることにします。なお、ねじれ歪みについては、反応機構解析「Rotational Barrier」のページで触れます。
Strain Energy of Cycloalkane
シクロアルカンは、通常の直鎖状のアルカンと比較して、立体的な自由度が制約されています。そのため、主に変角歪み・ねじれ歪みが生じることがあります。環の大きさによって歪みエネルギーがどのように変化するかを、分子軌道計算による最安定構造のエネルギーの計算から求めてみましょう。基本的な有機分子の構造はMoldaに同梱されていますので、これを利用して計算を行うことにします。Moldaを起動し、[ファイル]→[テンプレート]→[Alicyclic compounds]→[Cyclopropane] を選択すると(Fig.1)、シクロプロパンの構造が読み込まれます。このまま、今度は[データ変換]→[MOLDA→MOPAC]を選択し、キーワードとして「PM3 EF PRECISE」を、コメントとして「cyclopropane(適当で良いです)」を入力し(Fig.2)、 OKボタンをクリックし、MOPACの実行ファイルセットがあるフォルダ内に適当に名前を付けて保存します(ここではcyclopropane.dat)。デフォルトで.mopで保存するようになっていますが、 All Files (*.*)に変更し、.datをファイル名末尾に付けて保存しましょう。あとは、MOPAC6 で計算を行うだけです。他のシクロアルカンも、同様に計算まで行います。
歪みエネルギーを求めるための比較対象となる直鎖状アルカンについては、Moldaの「直鎖アルカン生成ツール」を利用して初期構造を生成します。左から5番目のボタン(水色のジグザグ)か、 [組立]→[入力]→[アルカン生成]を選択し、炭素数を入力することで任意の炭素数の直鎖アルカンを生成することができます(Fig.3)。あとは同じようにMOPACの入力ファイルを作成して計算します。
計算によって求められた各分子の生成熱から、炭素数6を基準とした相対的歪みエネルギーを求めてグラフ化したものをFig.4に示します。このグラフは、直鎖と環状のエネルギー差を計算し、その中で最も差が小さかったヘキサンを基準(0)として算出しました。傾向は有機化学の教科書にあるグラフと概ね一致しています。シクロプロパンの歪みが非常に大きい理由は、その極端に狭い結合角(60°)だけでなく、水素同士が重なり配座をとることによるねじれ歪みの寄与です。シクロブタンが結合角を不利にしてまで折れ曲がり配座をとるのは、ねじれ歪みが馬鹿にならないことを如実に示しています。
Isomer of Benzene
ベンゼンには、同一の組成式を持ちながら構造が異なる「異性体」がいくつか存在します。下に良く知られている4つの異性体を示します。この内、最後のフルベン以外は有機化学の創成期にベンゼンの構造として提唱されたものです。この4種類の分子はいずれも合成されており、全てベンゼンよりも不安定であることが分かっています。実際にどれほど不安定なのか、計算により数字で比較しましょう。どれが一番不安定でしょうか。
最初の3つの分子はモデリングが厄介ですので、そのやり方について少し触れましょう。 (1)Dewer Benezeneは、シクロブテンが2つ縮環した構造をしています。そこで、まずはビシクロ[2.2.0]ヘキサンを組みます(Fig.5)。あとは、水素原子を4個削除して最適化すれば完成します。(2)Prismaneは、ジシクロプロパン (Fig.6)から水素原子を4個削除して最適化すれば完成します。(3)Benzvaleneがモデリングで一番難しいと思いますが、これのモデリングのポイントは、5員環は後回しで先に3-3縮環系を作るということです。シクロプロパンにメチル基を生やして、水素原子を2個削除することでビシクロ[1.1.0]ブタンを構築します。これに[-CH-]を2つ追加し(Fig.7)、最適化をすれば目的の構造を構築できます。(4)Fulveneの構築は簡単なので省略します。
さて、ベンゼンとその異性体を生成熱で比較したのがFig.8です。比較として、仮想分子であるシクロヘキサトリエンについても入れておきました(数値は推定値)。どの異性体も、ベンゼンに比べると不安定であることがわかります。そればかりか、共鳴を無視したシクロヘキサトリエンよりも不安定になっています。つまり、共鳴を考えなくても、その立体的な歪みで十分不安定性を獲得していると言うことができます(変な言い方ですが)。
フルベンは、立体的な歪みはほとんどありませんので、他の異性体と比較すると、非常に安定な分子であると言えます。ベンゼンと比較して、共役が切れている点で不安定な筈ですが、その不安定性はわずか1.7 kcal/molです。これは、フルベンが比較的大きな双極子モーメントを持っていると計算されること(Fig.9)から推察できます。つまり、Fig.10に示すように、この分子は共鳴構造の中に芳香族性を持ちうる構造があります。この寄与により、双極子モーメントを有し、且つエネルギーが低くなっていると考えられます。
高度に歪んだ化合物は、沢山のエネルギーを分子内に蓄えていると言うことができます。これは、何かエネルギーを与えて高歪み化合物を合成し、別の場所で低歪み化合物に変換しながらエネルギーを取り出す「エネルギー貯蔵・輸送システム」としての利用できる可能性を秘めています。最も単純な例が、ノルボルナジエン―クアドリシクラン系です(下式)。

ノルボルナジエン(式・左)は、光照射によって、95%でクアドリシクラン(式・右)へ変換されます。このクアドリシクランは高度に歪んだ化合物で、暗所で金属触媒を用いることにより、発熱を伴いながらノルボルナジエンへ100%変換されます。MOPAC(PM3)による両者のエネルギー差は 27.54 kcal/molで、実測値(+25 kcal/mol)とかなり近い値となっています。今この文章をご覧のあなたにも、新しいエネルギー吸蔵分子の設計が可能です。一攫千金も夢ではない!?
