NMR化学シフトの高速計算

分光学的に測定される分子のプロパティの中で、NMR(核磁気共鳴)スペクトルは有機化学者にとって最もなじみ深いものではないでしょうか。化合物の構造決定において、X線結晶構造解析、質量分析と並び極めて重要な位置を占めています。
量子化学計算プログラムの多くは、NMRの化学シフトやカップリング定数を計算することができます。ここでは、ORCA 4.1.0を使った計算例をご紹介します。

代表的な有機小分子での計算

一般的な化学シフトの範囲は1Hで0~10 ppm, 13Cで0~220 ppmほどですので、その範囲をだいたい網羅するように9種類の有機小分子を選び、CDCl3中での実測値をどれくらい再現できるか調べました。9種の有機分子と、基準となるTMS(Tetramethylsilane)の構造を以下に示します。orca_iglo_01

構造最適化はBP86-D3(BJ)/Def2-SV(P)で行い、PBE0/pcSseg-2でGIAO法による遮蔽定数の計算を行いました。溶媒効果はSMDモデルで考慮しました。代表的な入力ファイルの一例を以下に示します。

! Opt BP86 D3BJ Def2-SV(P) Def2/J RI PAL6
%cpcm
 smd true
 SMDsolvent "chloroform"
end
* gzmt 0 1
C
O 1 1.2
C 1 1.5 2 120
C 1 1.5 2 120 3 180
H 3 1.0 1 110 2 0
H 3 1.0 1 110 5 120
H 3 1.0 1 110 5 -120
H 4 1.0 1 110 2 0
H 4 1.0 1 110 8 120
H 4 1.0 1 110 8 -120
*
! PBE0 NMR TightSCF pcSseg-2 Autoaux RIJCOSX PAL6
%MaxCore 9000
%cpcm
 smd true
 SMDsolvent "chloroform"
end
* xyzfile 0 1 acetone_opt.xyz
※本ページの例では、構造最適化でも溶媒効果を考慮していますが、研究例では構造最適化は真空中で行い、化学シフト計算のみ溶媒効果を考慮する例が多いです。代表的な研究例についてはCHESHIREがよくまとまっていますので参考になります。
NMR計算におけるモデル化学の選択
NMRの計算に使うモデル化学は、基本的に構造を議論する際に使うものとほぼ同じです。理論的枠組みとしては、一般にhybrid DFTで十分な精度が得られます。汎関数としてはmPW1PW91かPBE0(PBE1PBE)が最も適しているようです。基底関数は、過去の研究例の多さで言えばPopleのスプリットバレンス基底(特に6-311Gにdiffuse関数といくつか分極関数を足したもの)ですが、近年ではDFTの遮蔽定数計算にフィットさせたFrank JansenのpcS-nも有力です (JCTC, 2008, 4 (5), pp 719–727)。今回は、ORCAに内蔵のpcSseg-2 (JCTC, 2015, 11 (1), pp 132–138)を使いました。Jansenの論文には他の基底関数との精度比較もありますので参考になります。

結果を散布図にすると以下のようになります。

どちらの核種でも非常に良い相関関係ですが、計算値は若干数値を大きめに見積もる傾向があります(線形近似の傾きが1以上)。13Cでは一つ大きな外れ値がありますが、これは2,2-Dichloropropaneの2-Cで、ハロゲン原子が結合した炭素の化学シフトは過大評価する傾向があります。

大き目な分子での計算

より「現実的」なサイズの分子の例として、生理活性物質であるStrychnineとTriamcinolone Acetonideを取り上げます。これらを選んだ理由は、9つの小分子を選んだ時と同様に、ピークが広い化学シフトの範囲に散在しているためです。計算は先と同じモデル化学で実施しました。

こちらも非常に良い精度で計算ができています。ちなみに、Triamcinoloneの化学シフト計算は上記すべての計算で最も時間がかかりましたが、計算時間は筆者の環境で約3時間半でした。
ちなみに、今までの計算をすべて一つのグラフにまとめると以下のようになります。

量子化学計算による化学シフト推定の活用
量子化学計算による化学シフトの推定は、近年では天然物の構造決定に大きな役割を果たすようになりつつあります。実際に、計算によってシグナルの帰属や構造が修正された例もあります(Computational Organic Chemistryにはそういった例がいくつも紹介されています)。従来の平面構造式ベースの加成則では推測できないような立体電子効果を、合理的に取り込んで精度よく推算できるため、今後更に活用が進むことが期待されます。
出典・計算ファイル
◆データの出典
(a) SDBS : https://sdbs.db.aist.go.jp/ (2019/01/04)
(b) Sigma-Aldrich:https://www.sigmaaldrich.com/catalog/product/aldrich/130265 (2019/01/04)
◆本稿の計算で使用したファイル
NMR_190105

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