ここ最近、ノーベル化学賞を日本人が立て続けに受賞して話題になりましたが、遡ること今から9年前、計算化学の分野で大きな貢献をした2人の科学者がノーベル化学賞を受賞しました。Walter Kohn(ウォルター・コーン)とJohn Anthony Pople(ジョン・ポープル)です。コーンは密度汎関数理論研究の中心人物、ポープルは量子化学計算プログラム開発の中心人物で、計算化学の分野では知らない人は誰一人いない巨人です。この2人をはじめとする多くの研究者によって、コンピュータを使った分子の研究=計算化学は形作られました。
計算化学は実験だけでは分からない部分にメスを入れるとともに、今までの分子の描像を一変したりもしました。が、90年代半ばまでは大学などの計算機センターにあるスーパーコンピュータを使って行う、私たちとは縁遠い世界の研究でした。しかし、コンピュータは90年代中盤以降ものすごいスピードで進化し、一昔前のスパコンに引けを取らない性能が、個人レベルで手に入るようになりました。そして現在、ノーベル賞の成果を自宅のPCで体験できると言えるほど、計算化学は身近な分野になりつつあります。
分子の形を求めたり分子軌道の形を知ったりするには、計算プログラムが必要になります。第一線の研究に利用されるプログラムは高価なものが少なくありませんが(Gaussianなどが有名)、無償で利用可能なプログラムも多くの研究者によって開発されており、Webで公開されているものも数多くあります。以下に、筆者が利用している(もしくはしていた)無償で公開されているプログラムを紹介します。
| 計算プログラム | 入出力支援プログラム | ||
|---|---|---|---|
| GAMESS(US) PC GAMESS | ab initio分子軌道法,密度汎関数理論,半経験的分子軌道法で計算可能。両者で利用可能なオプションが多少異なる(GAMESS(US)なら結合クラスター理論が使え、PC GAMESSならMP4が使えるなど)。 | Winmostar | MOPAC,GAMESS,Gaussian,CNDO/S,MOS-Fなど多彩な計算プログラムの入力作成と出力可視化に対応。MOPAC(ver.6/7)とCNDO/Sが同梱。 |
| Facio | GAMESS,Gaussian,MOPAC,UT-Chemの入力作成と出力可視化に対応。キーワードをメニューから選ぶ入力作成機能が秀逸。 | ||
| ORCA | ab initio分子軌道法,密度汎関数理論,半経験的分子軌道法が可能。SCS-MP2やMP2/DFTハイブリッド法などの新しい理論も利用可能。 | Molekel | Gaussian,GAMESS,MOPAC,ADF,Q-Chem,Jaguar,Turbomol,DMol3など、幅広い出力ファイルをカバーする可視化プログラム。 |
| OpenMOPAC | 半経験的分子軌道法で最も著名なプログラム。PM6では遷移金属を含む広範囲の元素に対応。 | Molden | GAMESS,Gaussian,MOPACの出力可視化に対応。Windowsでの動作にはX serverが必要。 |
| CNDO/S | 励起状態の計算が主眼の半経験的分子軌道法プログラム。 | MacMolPlt | GAMESSの入力作成・出力可視化に特化したプログラム。 |
これらのプログラムを組み合わせることで、市販のプログラムに引けをとらない計算環境を構築することができます。例えば筆者の場合、計算プログラムとしては主にGAMESSとOpenMOPACを使い、その入出力を楽にしてくれるWinmostar, Facio, MacMolPltを入力作成や出力の可視化に利用しています(右の図は、Winmostarでメタノールの静電ポテンシャルを可視化したところです)。上記プログラムはいずれもWindows上で実行できますので、難しい設定なしに誰でも気軽にできるのではないでしょうか。
PCで計算を行うにあたって、どれくらいの性能が必要になるかは計算対象によるところですが、現在(2007年12月)の最新のPCであれば、よほど大きい分子で無い限りは実用的なタイムスケールで計算を行うことができるでしょう。最近のPCは搭載されているCPUがデュアルコアやクアッドコアになってきていますので、計算を並列化することでかなり効率よく計算することができます。
上述のプログラムを使うと、何がわかるのでしょう?その答えは「あなた次第」ということになるでしょうか。使い方次第で、化学という広大な分野のありとあらゆることを解き明かす可能性を秘めています。筆者の視点(有機化学)からならば、有機分子の3次元構造とその分子軌道,エネルギー,反応性,分光学的挙動(各種スペクトル)などが挙げられます。分野が違えば視点も変わってくるでしょう。
さて、分子について調べようと思うと、まずはその構造を知る必要があります。有機化学の教科書には実に様々な分子が登場しますが、どれも2次元の構造式で記述され3次元でのイメージに乏しいものです。そこで、2次元の構造式をPCの中で3次元の分子モデルに組み上げるために、計算化学を使うことができます。市販のCPKモデルを使えば、ブロック遊びのように3次元の分子を組むことができますが、購入したセットに入っていない元素や原子価は扱えません。その点で、PC上でのモデリングはそのような制約がありません。
上の図は、2001年にノーベル化学賞を受賞した野依らのグループによって開発された、不斉水素化の触媒となるルテニウム錯体です。2次元の構造式で見るのと3次元のモデルを見るのとでは、その印象がかなり異なるのではないでしょうか。この錯体は非常に多くの原子で構成されていますが、2年前に購入した筆者のPCでも3時間ぐらいである程度精密な構造最適化を行うことができます(※1)。
構造以外にも、例えば分子の振動をアニメーション化することができます。下のアニメーションは、ライス大学のTourらによって報告された「nanoputian」(ナノメートル世界の小人 の意)の振動モードの一つで、小人が腰を横に振っているように見えます(※2)。分子の振動エネルギーは赤外線の領域にあたるので、赤外線の吸収を見ることで分子の構造を推定できますが、そのスペクトル(下右:アセトンの赤外吸収スペクトルの実測と計算)は言わば「分子のオリジナルダンスの振り付け」でしょうか。計算が実測をよく再現しています。


分子は振動するだけでなく、他の分子と衝突して化学反応を起こします。その正に反応が起こる瞬間(遷移状態)をアニメーション化することもできます。紙の上ではイマイチ理解できない色々な化学反応も、3次元モデルのアニメーションになるとより理解しやすく楽しいものになるのではないでしょうか?



反応の遷移状態を求めることができれば、それを足がかりに反応の全体像を明らかにすることもできます。右の図は、最も単純なアルケンであるエチレンを過ギ酸(HCOOOH)によって酸化してエチレンオキシドに変換する反応(Prilezhaev反応)をMOPACで解析してまとめたエネルギーダイアグラムです(縦軸の単位はkcal/mol)。
このように、計算化学を駆使することで分子の色々な面を知ることができます。しかも、それを自分のPCでできるのです!計算化学はまだ成熟していない学問で、計算結果を鵜呑みにすることは厳禁ですが、まずは触れてみないことには始まりません!さぁ今から、パソコンをフラスコに変えてみませんか?
分子の計算をする上で参考になる書籍を以下に挙げます(他にもありましたら是非教えてください)。